こんにちは。
しんどくなって会社を休んでしまいました。
最近、感情の起伏が妙に激しい気がします。元気なときは元気なのに虚無のように落ち込むことも多いです。
このような症状は友人たちから言わせれば異常であり、『躁鬱なのでは?』『病院いけ。』といった心配の声をかけてもらっています。(僕自身はまだイケると思っていますが、、、)
実際に僕が躁鬱なのかはさておき、このような感情の変調に陥ったのをきっかけに、ベッドの上で自身に起こっている症状の分析をしていました。
そのなかで、以下のような仮説に行き着きました。
・鬱病や躁鬱は病気ではなく防御機構である
・危機に陥った個人を守る機能ではない
・危機に陥った集団を守るための機能である
ということです。
これらはすべて私の仮説であって医学的根拠はありませんが、こういう考えもあるんだなくらいに思っていただければと思います。
以下では、上記の3項目についてもう少し詳しく記そうと思います。
(『ブログを書くなんて随分と余裕があるじゃないか。会社に行け。』と思ってもらえたなら、僕はまだきっと戦えるはずだ。やったぜ。)
鬱病や躁鬱は病気ではなく防御機構である
鬱病や躁鬱(双極性障害)は強いストレスや過労、悲しみによって引き起こされる『病気』と言われています。
確かに引き起こす原因はその通りなのでしょうが、これを病気としてではなく機能として捉えることはできないのでしょうか。
つまり
メリットはないのか?
ということです。
メリットがあるのだとすれば、それは機能です。デメリットがある上で、それでも有用な機能だったからこそホモサピエンスに備わり続けているのです。
そして、結論から言えばメリットは存在します。
鬱病に代表される活動の抑制は、危機的な状況において防御機構として機能します。
しかし、それが個体を守るためのものかというと、そうとは思えないのです。
危機に陥った個人を守る機能ではない
鬱病に代表される症状として以下が挙げられます。
・活動の抑制
・食欲の低下
・性欲の低下
・睡眠障害
これらはエネルギーや資源の消費を抑える機能です。
したがって、例えば原始時代のホモサピエンスが洞窟の中で飢餓などの危機が去るのを長期間に渡って待ち続けるためには適していたでしょう。
このことから、一見個人を生存させる機能のようにも考えられます。
しかし、鬱病には他の症状も存在します。
・希死念慮(死にたいと願う)
・自傷
これはどう見ても個人を守る機能ではありません。
そして、躁鬱の躁状態では
・過活動
・恐怖の欠落
なども挙げられます。
これらもリスクを増大させる作用であり、個人を守る機能とは言えません。
ですが、危機に直面した集団という観点で見たらどうでしょう。
危機に陥った集団を守るための機能である
例として原始時代に危機に陥ったホモサピエンスの集団を考えてみましょう。
彼らは洞窟で危機が去るのを待っているとします。
危機が迫り多大なストレスを受けた結果、多くの者が鬱病や躁鬱状態になったとします。
このとき洞窟の中には3タイプの個体が存在すると仮定します。
・鬱病
・躁鬱(重度)
・躁鬱(軽度)
鬱病の個体たちは活動を抑制してエネルギーや洞窟内の食料などの資源を減らさないように過ごします。
睡眠パターンも乱れるので洞窟内の警戒が一斉に途絶えることもありません。
当然、人口が増えたら困るので性欲も抑制されます。なんなら人口を減らしたいので死のうとします。
まるで細胞のアポトーシスのようです。
※アポトーシス:生物の細胞が自ずから死を選び新しい細胞と入れ替わることで体全体を良い状態に保とうとする機能
次に、躁鬱(重度)の個体たちは鬱と躁を繰り返すので、交代で活動します。
彼らは躁状態のときは過活動傾向にあり恐怖の感情が欠落しています。
したがって、危険を省みず洞窟の外に出てみて他の安全な場所を探したり、危機が肉食動物などの生物であったなら敵対行動を取ることもできたでしょう。
そして、その行動を行わせるかどうかは、躁鬱(軽度)の個体がコントロールすると効率的だと考えられます。
つまり、躁鬱(軽度)の個体たちは交代で集団の頭脳を勤めます。
鬱状態のときは心身の活動を抑えて休憩し、軽い躁状態で軽くHighになっているときに様々な判断を下します。
以上のように考えると、危機に陥った集団の存続という観点からは、以外と効率の良いシステムに見えてきませんか。
だからなんだという話ではありますが、病気ではなく機能なんだと考えたくなる僕の気持ちもわかっていただければ幸いです。
さて、僕は明日、会社に行くのでしょうか。(なんとか行きました。めっちゃ体調悪かった。つらい。)